黙とうに思う

 73回目の終戦記念日を迎えた。今日は家にはばあちゃんと二人きりで、昼食の天丼を作っている途中でサイレンが鳴り響いて黙とうの時刻を迎えた。


 我が家には二人の戦没者がいる。一人は、祖父伝八の弟で谷夫さん。もう一人は父、春次の兄、勇さんだ。彼の墓石には「昭和20年3月1日、西部ニューギニア、マノクアリにて戦死享年27歳」とある。


 マノクアリ戦線については、日本軍が壊滅寸前の末期的状況にあって、送り込まれた2万数千人が戦いもできずに餓死している。勇叔父もその一人だ。

 ブログで見つけた、その状況を、コピペさせてもらって、孫や子に知らしめて供養としたい。

【以下は参照】

<日本組織の欠陥 マノクワリ死の行進>
 
 太平洋戦争末期、1944年、熱帯のニューギニア西部の要地、マノクワリには多くの日本軍後方部隊が駐屯していた。米軍は連日マノクワリに猛爆撃を加えると同時に、近々、上陸するという予告ビラをさかんに空から散布した。日本軍司令部の高級官僚は、ここで全滅するよりは、ニューギニア南部にあるといわれる食用植物生産地まで移動して、自給しようと判断した。「マノクワリから南部の地までは直線距離で1週間程度である。自分の食料だけを担いで移動すればなんとかなるであろう」これが頭脳優秀と言われた高級官僚の発想であった。




マノクワリから2万人の日本兵ニューギニア奥地に向かって出発した。ニューギニアのジャングルは食用になるものなど一切なかった。道なき道をかき分けて進むのにも大変な時間と労力が必要であった。2週間たっても到着しない。日本兵はじきに持参した食料を食べつくした。次々と周りの人間が倒れて行った。しかし、ここから引き返すと途中で餓死してしまう。前進するよりほかはない。力尽きた兵士は横たわり二度と起き上がらない。先に進んで倒れた兵士は白骨化し、そのうえをよろよろと歩く亡霊のような兵士がみられた。ところが、かろうじて到着した目的地には、食用植物など全くなかった。2万人の日本兵は一人も帰還しなかった。司令部の官僚は、兵士達を見捨ててとっくに飛行機で安全な後方地帯に逃亡していた。



日露戦争で旅順を攻撃した乃木将軍は、無謀な肉弾攻撃で大勢の兵を死なせたと非難された。その旅順攻撃の戦死者は1万5千人である。マノクワリでは、1発の弾を撃つこともなく2万人の日本人、故郷へ帰れば一家の中心となる人々がジャングルで餓死している。
司令部の高級官僚は、米軍のビラ(偽情報)に攪乱され、南部に食料生産地があるといううわさを、確認もせず真に受けて、持参する食糧の計算もせず、2万人の日本人を無為に死なせてしまったのである。信じられないことに、それでも誰一人責任を追及されていない。
日本社会の組織の欠陥、試験をパスし上司のうけの良いものがリーダーとなる弊害、無責任、情報に対する無知、は過去の話ではない。将来、自衛隊が海外に派兵されたときにも充分起こり得るのである。マノクワリ死の行進にみられるような、日本的欠陥リーダーによる自衛隊員の犠牲が再現されなければ良いが・・・