K教の春の大祭

 7時過ぎに家を出て和歌山市の直川教会に8時前に着いた。それから、全員で、今日の大祭成功のご祈念をして各自持ち場に散った。

 とにかく、年々人数が減っていく中で、マンパワーの維持と効率化が大命題なのだが、旧態依然の考え方がはびこっていて改善されない。

 国内における宗教団体でも過去のやり方に固執して、それをやり続けるというのもおおいにあり得る。例えば、1,200年以上前から続いている高野山における「空海生存による生身供(しょうじんぐ)」。今も、朝の6時と10時半の二回、嘗試地蔵[あじみじぞう]に毒見をさせたあと、エアー空海に提供されている。

 K教の起こりは1859年の備中の国浅口郡の百姓赤沢文治(川手文治二郎)による新宗教だった。現在、国内・国外の信者は45万人とウィキペディアの情報だ。でも、国内における宗教離れはいずれの宗教にも派生していて、とにかく、子、孫が続かない。

 「別に、どこかの宗教に頼らなくても生きていける」という、我が国の成長が導いた結果ではないかと筆者は考えるが、いかがなものか。異論・推論があったらお聞きしたい。