副区長としての最初の仕事を2件完了した。何のことはない、前任者からの名前の変更だ。一つは、銀行口座、もう一つは電気料金の請求書の送り先だ。
昨日に引き続いて、超低温の朝だった。放射冷却効果で夜半にはマイナスになったらしく、霜や氷で白い景色だった。
それにつけても寒い夜だ。日本の医療崩壊を予測させるような都会の感染者数に慄然とする。
はるか50年前だ。ええっつ、そんなに生きたの俺?確か、スーツを持っていなくて、Yシャツの上にロングコートを着て写真に写っている。
18歳で石油精製の現場に配属されて、交代制勤務だった。だから、作業着はあっても背広を着る機会は2年間なかったのだ。
町の主催する式に出て、50人程の合同写真に写っているが、ぶざまなスタイルだ。洗練されていないイノシシだったが、それはそれで蒼い時のいい思い出だ。
この地区の初集会だった。戸数は25戸を下回っているが、今日、O新区長の選出とともに、彼が指名する副区長になってしまった。
その原因が、区の行政の一大イベントである、秋の「付立」にある。つけたてと読むのだが、この地区の財政を左右する。
この地区に在住する人に加え、この地区に財産を持っている人、さらに、かつてこの地に暮らしたが、先祖が死に絶えて、でも家屋や田畑が残っている人に区費を請求する作業だ。
歳入を求めるこの事務を、私が担当することになった8年前から、それまで算盤か電卓で計算し、帳面に記述していた方法を一新し、すべてエクセルのアウトプットとした。
さらに、区外の資産家への区費の請求書類も、郵便局の振込用紙のフォーマットをパソコンに取り込んで、プリントするように簡素化した。
で、今日の区会では「この作業を委託する」ということになった。この地区で、それに応じられる人物は、私とY氏しかいないので「この件、お受けしますがY氏と交代で願いします」と応じた。
この話、ご理解いただけたでしょうか?
今日も3時から二人で5キロの散歩コースを歩いた。この冬一番冷たかったが、防寒マックスで挑んだら、郵便局を過ぎたあたりから手袋の中が暖かくなった。
今日はメジャーを持って出た。いつも歩くコースで気になる距離がある。例えばガードレールの支柱の間隔とか、溝蓋のグレーチングの長さなどだ。
すべて測って納得した。つまりは自分の一歩が何センチなのかを知りたかったのだ。これはゴルフの歩測に利用するためだ。
結果は私は75センチで妻は65センチだった。1歩で10センチの差がでるので、10歩で100センチ、つまりは1メートルだ。
コースは妻で約1万歩歩くので1キロの差が出るはずだが、ゴールでは横にいる。つまりは彼女は高速回転しているのだ。(あたりまえでしょ)
今日のタイトルは、インターネットのスタートページに表示される私のHPのアイコンが、いつの間にか津木小学校の校章になっていたことだ。
確かに、昨年はちょかちょかと関わったし、ブログも拝見したが、プロバイダはこんな粋な計らいをするのだろうか。ミステリーだ。
【第二話】
ある日、カマ詰めが深夜に及ぶことがあった。(カマ詰めとは、炭になる材木が一週間の乾留を終えて真っ赤に熾きて、これを空気を遮断することで黒炭にすること)
それが深夜の2時ごろになって、春次は私をホンダドリーム号の荷台に乗せて室河峠に向かった。
この峠には、かつて小山権現が祭られていて、有田と日高の両側から参拝者があって賑わった。しかし、その頃には建物も朽ち果てて、礎石がゴロゴロところがっている惨状だった。
炭小屋への小道には、いつのものかは分からない数基の墓石が建っていた。灯りは春次が持つ懐中電灯ひとつで、哲は後ろに得体のしれない闇を引き連れていた。
その墓石の前を、春次のケツにひっついて着いて行ったが、いつ鬼に襲われるかという恐怖が半端じゃなかった。
そりゃ、戦争の体験もある親父だったので、生々しい人間の生死を見て来たであろうが、それが逆に怖かったから小4の私を共にしたのではなかっただろうか。(つづく)