収獲はなし

 少し運動は控えようとしているので、久しぶりに町の図書館「いなむらの杜」に出かけた。目的は地域の歴史発掘だ。

 

 その一つが、1キロ下流の寺杣地区だ。過去には「由良の興国寺の建設の時に、この地区で材料の木材を調達し、杣人(そまびと)が居ついた」と認識している。

 

 で、今日の広川町誌上巻226ページの記述。

【寺杣(てらそま)】 昔の下津木村の一小名であった。(中略)日高郡の由良興国寺(開山と通称)修造のとき、この地から大勢の木材関係者がいついたのでこの名がついたという伝承がある。

 

 これだけ。がっかりだ。

 

 ウイキペディアによると、興国寺は鎌倉幕府3代将軍・源実朝の近臣であった葛山五郎景倫が安貞元年(1227年)に実朝の菩提を弔うために建立した西方寺より始まる。とある。

 

 昨年放映された鎌倉殿の13人で、暗殺された頼朝と政子の子であった。なんで由良なの?と思われるが、景倫の忠義に政子が由良の地頭職を与えて建立したとある。

 

 私が知りたいのは、800年前に、この地で原始林を伐採し、当時の広川に浮かべて海に出て、海上を南下して由良まで至り、さらに陸に引き上げて興国寺のあるところまで運んだ経緯と、いついた杣人の子孫を知りたいのだ。

 

 ちょっと手ごわいかな?